ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とライー

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 パリ・サンジェルマン
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 サンパウロFCが1992年にトヨタカップを制した時のキャプテン。そのときのゴールは伝説の股間ゴールと称されている。
ボタフォゴFCでキャリアをスタートすると頭角を現し1988年にブラジル代表へ選出、同年にはサンパウロFCに移籍するが適応する事が出来ず、長い低迷期に入り代表からも外れる。数年の雌伏を経てライーは復調を果たしサンパウロFCの不動のエースに成長。ブラジル代表には1991年にカルロス・アルベルト・パレイラが監督に就任すると復帰し、不動の10番として活躍した。1992年にはサンパウロFCにインターコンティネンタルカップをもたらした。
この活躍を受けて、1993年にライーはフランスのパリ・サンジェルマンに移籍。しかし、ライーはここでも短期間でフィットすることができず、絶不調に陥る。ちょうどアメリカ大会予選の真っ最中だったが、パレイラはあくまでライーを10番(プレーメーカー)として起用し続けた。絶不調に対し「10番論争」がブラジル世論を席巻したが、「ライーが復調すれば10番問題は片付く」とパレイラは擁護し続けた。
しかし、ライーは1994年に入っても不振を極め、当時、日本で最晩年を迎えたジーコ待望論が起きるほどだった。迎えたアメリカワールドカップの開幕戦、注目のブラジル代表の10番、主将、プレーメーカーはライーだった。ライーはPKで得点するが、全般的に低調で、決勝トーナメントに入るとライーの指定席はベンチとなり、これ以降、ブラジル代表主将は「闘将ドゥンガ」のものとなった。
皮肉なことにライーは、1994年のアメリカ大会以降、パリ・サンジェルマンで復調。しかし、ブラジル代表の10番は、レオナルド、リバウドに任されることとなった。結局、レオナルド、リバウドに押され、ザガロが監督になって以降、セレソンに招集されることはほとんどなくなっていき、フランスリーグでプレイしながら、1998年のフランス大会には、招集されなかった。
ライーは選手としての晩年をサンパウロFCで過ごし、2000年に現役を引退した。