ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とトラックスラー

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 威力強
ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00









ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 1994年、当時ドジャースと友好関係を築こうとしていた福岡ダイエーホークスに入団。ダイエー球団ではなく、ダイエー本社海外部が2年契約で獲得した。新興球団であるダイエー(南海球団の買収および近畿から九州への本拠地移転から7年目)に対する伝統あるドジャース(創立111年目)側の態度は悪く、後日訪問した巨人や中日のキャンプ地では熱心な技術指導まで行ったのに対して、ダイエーのキャンプ地は短時間視察を行ったのみであり、友好関係は程なく消滅した。
前半戦は、よく似た体型ながら1993年にフィラデルフィア・フィリーズワールドシリーズへ導く働きを見せたジョン・クラック一塁手を髣髴とさせるパワーと巧打ぶりを発揮し、クラック同様に主砲・秋山幸二の前を打つ3番打者としてなかなかの働きを見せた。守備範囲は狭いもののグラブ捌きも悪くなく、175cmと小柄ながら100kg近い体型もあって「コロコロちゃん」の愛称で親しまれた。後半戦は弱点を突かれ、凡打に終わることが多くなり成績も急降下。チームもAクラス入りを逃した。なお、前半戦での活躍に気をよくしたダイエー本社海外部が本塁打出来高払いを付けるという裏契約を持ちかけたため、後半戦では本来の持ち味である巧打が影を潜めて本塁打狙いの凡打が増えてしまった、という報道がシーズン終了後にされた。
1995年はケビン・ミッチェル獲得により、1994年にプレーしていたケビン・ライマー又はトラックスラーのどちらかが解雇されることになった。当時のチーム事情からトラックスラーを解雇することが決定的であったが、トラックスラーダイエー本社海外事業部のお墨付きで獲得した選手であったことから、簡単に解雇することができなかった。結局、トラックスラーはキャンプ中に解雇されたが、これによってダイエー本社とミッチェルとの関係にヒビが入り、その処遇にあたって悪影響を及ぼすものとなった。ライマーも満足な成績を残すことなく1995年限りで解雇。