トンキョンkarasuと桑田隆幸

トンキョンkarasu アジア競技大会
トンキョンkarasu









トンキョンkarasu 生まれは満州、1945年終戦に伴い帰国した。広島高師付属小学校(現広大付属小)時代にサッカーを始めると中学校時代には宮本輝紀とともに地元では有名な選手となった。
1959年、広大付属高校時代は同級生の野村尊敬、1年後輩の小城得達桑原楽之溝手顕正、船本幸路とともに全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝。1959年、1960年、クアラルンプールで開催された第1回、第2回アジアユースサッカーの日本代表にも選ばれ1960年には主将を務めた。その年は大学受験に失敗し1年浪人してしまったが、全日本に初選出される。
1961年、早稲田大学に進学。野村、松本育夫、二村昭雄、森孝慈釜本邦茂らと共に同大学ア式蹴球部の黄金期を創った。1963年には日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。
卒業後1965年、地元の東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団した。
東洋工業では小城、桑原楽、船本、石井義信、小沢通宏、今西和男らととも、天皇杯優勝3回、JSL優勝5回に貢献した。相手に嫌がられるテクニシャンで、また2列目から飛び出し、突進して目のさめるシュートでゴールを奪うMFとして活躍、特に大学時代から共にプレーした左ウイング・松本とは抜群のコンビを見せた。JSL初年度の1965年、東洋工業は全14試合で44得点を挙げているが、桑田はチーム得点王(桑田11、岡光・小城9、松本8、桑原楽7)であり、また同年第14節・対ヤンマー戦で記録した11-0(最多得点及び最多得失点差11点はJSL最高記録)のうち、桑田一人で5得点を叩きだす(小城4、松本2)など、得点能力に優れていた。1966年の第2回日本サッカーリーグでアシスト王に輝いている(第1回大会はアシスト制度そのものがなかったため、同リーグ初代アシスト王)。
また、日本代表では1962年8月にジャカルタで開催された第4回アジア大会に日本代表として出場(第1戦のタイ代表戦では1ゴールをマーク)した他、1960年代に開催された親善試合(国際Aマッチ以外も含む)で大活躍した。
1969年に家業を継ぐことになり東洋工業を退社すると、他チームの守備強化もあいまって東洋工業の得点力が落ちて行った。
その後は広島県1部リーグの広島FC監督などを務め、2004年3月から岡光龍三の後を受け、広島経済大学サッカー部監督に就任し、現在も活躍している。