トンキョンkarasuと吉田麻也

トンキョンkarasu 体のケア
トンキョンkarasu









トンキョンkarasu 小学校2年生のとき、地元長崎市の南陵FCでサッカーを始める[1]。小学校6年生のとき、兄が見つけた名古屋グランパスのユースセレクションを、家族で名古屋を訪れるついでに受験[1]。家族はもとより本人も合格するとは思っていなかったが、合格した(受験者70人中合格は4人であった)[1]。
ユース(U-18)時代はキャプテンを務め、選手としてもボランチとして攻守にわたって支える、チームの要といえる存在であった[2]。2006年の全日本ユースではチームを牽引して準優勝に導き、翌2007年に長谷川徹福島新太、新川織部とともにトップチームに昇格した[2]。
2007年シーズン開幕前、古賀正紘秋田豊角田誠が離脱するなどのチーム事情から、層が薄くなったセンターバックにコンバートされ[2]、第9節大分トリニータ戦で初出場を果たした[3]。19試合に出場。
2008年シーズン、就任したストイコビッチ監督の信頼を受け、序盤はバヤリツァとともにセンターバックのレギュラーとしてチームを支えた。7月には北京五輪代表に選出。グランパスではシドニー五輪オーバーエイジ枠で出場した楢崎正剛を除けば初のU-23日本代表への選出であった[4]。出場は敗退決定後のグループステージ第3試合オランダ戦だけであったが、マッチアップしたFWロイ・マカーイと互角に渡り合った[5]。五輪招集により一時的にレギュラーから外れた[6]ものの、22試合に出場。第22節鹿島アントラーズ戦では初得点も挙げた[3]。シーズン終盤には、決定力不足を補うために高さを生かしてFWとして起用されることもあった[7][8]。
2009年シーズン、退団した大森征之から背番号4を受け継ぐ。25試合に出場し、名古屋DFの軸として活躍した。12月21日には、既に予選突破を決めており、若手中心のメンバーで臨む方針だったアジアカップ最終予選・イエメン戦に向けたA代表に初招集され、この試合でA代表デビュー。この年のオフ、オファーを受けたオランダのVVVフェンローへ完全移籍。
フェンロに移籍してすぐ左足首を骨折し、09-10シーズンは出場がなかった。2010年10月30日の対FCフローニンゲン戦の後半途中から出場し、これがオランダでのデビュー戦となった。試合は3-5で敗れたが、初アシストもマークしている。
2011年、AFCアジアカップ2011に臨む日本代表メンバーに選出。フルメンバーでの実質代表デビューとなった1月9日のグループステージ第1節・ヨルダン戦で代表初得点を記録。